『Nのために 論考』
私の主テーマは杉下の魂が如何にして解放されうるか、というものでした。
現代編のドラマ中での位置づけは、余命1年の杉下の魂の解放過程と捕らえています。
異常な状況下に置かれた杉下の抑圧されていた成瀬への思いが正常さを取り戻し上昇するプロセス。
2つの事件を昇華させる部分。
そのプロセスを解くための分析だったわけです。
以下、オフィシャルサイトの投稿が締め切られた時点での解釈を以下に掲載します。
なお、文章の美しさを上げる為、投稿した内容から若干の表現の変更をしています。
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以下、杉下のモノローグとして
「成瀬が現れる前」
沢山の嘘をつき、人を傷つけた。
私は救われないだろう。救われたいとも思わない。
サンクチュアリは高みに上昇して、もう手が届かない処。
それで大事なサンクチュアリが守れたのだから。私にはそれで十分。
あとは静かにこの世を去れればいい。
「成瀬が現れた時」
私を守る為に、私から離れたはずなのに。どうしてそこにいるの?
私は成瀬と近づいてはいけない存在なのに。どうしてそこにいるの?
サンクチュアリの成瀬が、どうして私より下にいるの?
「成瀬との会話の後」
サンクチュアリなんてなかった。唯の虚飾と妄想、私の勘違い。
醜であったスカイローズガーデンも同じなのか?
サンクチュアリの一部であった母と奈央子に本質的な差はあるのか?
奈央子の罪をかぶった西崎と、私を制し代わりに火をつけようとした成瀬に本質的な差はあったのか?
火をつけようとした私と、外鍵をかけた安藤との間に本質的な差はあったのか?
私の嘘に乗った成瀬と、4人の間の取引には本質的な差はあったのか?
何もない。
たまたまの組み合わせでサンクチュアリは美しく見え、スカイローズガーデンは醜く見えただけ。
二つは、互いに打ち消しあい、霧消した。
それでも消えずに残ったものがある。
いづれの時でも成瀬が私を助けてくれたとの確信と、私が成瀬を助けようとした熱情。
私にはこの2つが真実。
今、三度生身の成瀬が私の傍らに立っている。サンクチュアリの住人としてでなく、同じ目線上に。私を救うために。
私は恐れている。再び彼を災難に巻き込むのではないかと。
でも、こうも思う。成瀬の申し出を拒むのは、彼に対する冒涜ではないか、とも。
私は彼を尊敬する。狂おしいほど愛おしくもある。同じ目線上にいる筈なのに、気高くさえ感じる。冒涜する気など全くない。
ならば、私は救われてもいいのだろうか?
私は救われる価値などないと、救われてはならないと思っていた。
私は、救われなどしてもいいのだろうか?
「主治医との会話後」
私が死んだ時、一番悲しんでくれる人は誰?
成瀬だ。
例え私が彼の申し出を受け入れても、拒んでも、どちらであっても同じだけ悲しんでくれる。
同じように悲しんでくれる人は他にもいるかもしれない。
でも、私にはもう時間がない。残された時間をどう使うのかを選択しなければならない。
自らの時間を、自らの意思で、誰の為に使うのか。
私は残された時間の全てを成瀬の為に捧げる。死んだ時に成瀬が私の為に流してくれる涙の分以上の何かを成瀬に与えたい。
それが私が彼の為に出来る唯一の事。そうすることで私もきっと救われる。救われたい。
生きたい。もっと長く、少しでも長く。
もしかしたら、父も似た事を考えたのかな?
「母親との再会前」
私はいずれ一人で動けなくなる。
成瀬に頼りきる生活になる。
頼りきる?
それは私が嫌悪した母と同じではないか。
私はその時、自分を嫌悪するに違いない。
そんな私にでも、成瀬は無償無限の愛を注いでくれる。
真っ白な心は真っ白な心で受けなければ。
私はそれを彼から受けてよいのだろうか?私にそんな資格はあるのか?
私は、私自身を許せるだろうか?
私は、母を許せるのだろうか?
「成瀬の前に立ち」
私は今、心に一点の曇りもなくあなたの前に立つことが出来る。あなたに私の全てを委ねる事が出来る。
まるで、母親にすがる赤子のように。
ようやくここへ辿りついた。
残された時間は僅かだが、私は幸せだ。
これまで沢山の事があった。傷つき、逆に人を傷つけもした。
私は全ての事を受け入れる。それら全てが私がここにたどり着く為に必要だった事だから。
今ならすべての人、出来ごとに心からの感謝と祈りを捧げる事が出来る。
私は幸せだ。ありがとう。