2015年3月26日木曜日

ミステリーとしての仕掛け その一 タイトル

『Nのために 論考』

ドラマがキルケゴールの実在主義哲学がモチーフである、という主張と証左は昨日までに書かせて頂きました。

今日からは物語のミステリーとしての仕掛けについて、いくつか書かせてもらいます。

まずはタイトルから

原作者である湊かなえが意図して使用したかどうかは不明ですが、『Nのために』というタイトルそのものが、トリックというか、ある種のミスリードを誘う道具であった、少なくともそういう効果があった、と見ています。

つまり、”~のために”という言葉の多義性をついたものです。

一般的に、日常使用するなかで”~のために”という表現は行動者の意図と理解されているケースが圧倒的に多いのではないでしょうか。

例えば”子供のために”と表現すれば、行動者の意図は子供を利する意図に基づいた行動と取るのが一般的です。

ですが、よくよくこの”~のために”という言葉の意味を掘り下げると、最低3つの、明確に区分すべき使用方法があると思います。

ひとつが、行動者の行動の原因としての”~のために”
ひとつが、行動者の行動の意図としての”~のために”
ひとつが、行動者の行動の結果・効果としての”~のために”

具体例をひとつ挙げて説明します。
スカイローズガーデンでの安藤のNは杉下です。つまり安藤にとっては”杉下のために”。

安藤は杉下が困った際に誰を頼るのかを確認する事を目的に外鍵を掛けた。それが事件の凄惨化の要因となった。

これを上記の原因・意図・結果を個別に分析すると、
原因=杉下(杉下が誰を頼るか)
意図=安藤自身(自分が知りたい)
結果・効果=事件の凄惨化(自分を含めた誰もを利することになっていない)
というものです。

安藤にとっての”杉下のために”は自身の行動の原因だけを言っていることになります。

タイトル自体がその言葉の多義性を利用した、原因・意図・結果をすり替え誘導することを狙った仕掛けである、というのが私の主張です。

2 件のコメント:

motoさん さんのコメント...

安藤が『自分のNは杉下』と高野に答えた事に、多くの方が合点がいっていません。
実際私も合点が行かず、ここで述べたような分析もしました。

しかしながら、実は安藤の意図が杉下の保護、と言える行動があるんです。

この後に触れていますが、実は安藤が捜査機関に対して行った証言、これが杉下を捜査機関の嫌疑から杉下を除外する意図で行われたんです。ですから、彼の高野に対する自分のNは杉下、という説明は嘘ではないんです。

よく安藤のNは自分?という論がありましたし、私も当初はそう判断していましたが、それは間違いです。

これに気付くには、安藤が事件の真相が奈央子による心中だと理解可能だ、という事に視聴者が気付けるかどうかです。
安藤は事件の真相を理解していたが故に、あのような証言をしたんですね。

motoさん さんのコメント...

この”~のために”を原因・意図・効果に分けて考える事がこのドラマのミステリーを解くうえで、必須の条件であると、今でも考えています。

これが出来ないと、特にスカイローズガーデンにおける偽証の構造を正確に理解できないのです。そしてこれが出来ないと、その後杉下と成瀬が10年間に渡り接触がなかった理由も理解できないのです。


端的に言えば、成瀬の捜査機関への偽証の意図です。成瀬の捜査機関への偽証の意図は自己保身です。だから成瀬は高野に対して自身のNが誰であったを話していません。杉下のNが語られないのは、わかりやすいですが、この成瀬が自身のNを語っていない点は見過ごされています。


後に本編でも触れているのですが、成瀬が西崎の提案に乗り、杉下に偽証を偽証を指示した時点における彼の意図は杉下を捜査機関の建議から除外する事です。その点については”なぜ自分がこの場所にいるのか判った”とモノローグとして語られています。杉下にさざなみ炎上時の借りがある彼は、その借りを返す番である、と考えていたのです。

しかし、その後杉下のNが安藤と勘違いした成瀬は、実は上述の行動原理を変更したのです。その結果、自己保身が彼の行動原理として捜査機関に証言した。しかし、自己保身する上での証言としても、”自身は知らなかった、事件前に二人にあっていない”と証言するのが正しく、第三者からみるとその行動そのものには変化がない。そのため、さも一貫して彼の行動は杉下を嫌疑から守る、つまりは彼のNは杉下である、といった解釈に固着してしまっている。

ですので、彼のこの間の行動に関しては、当初は杉下を嫌疑から守ることが”意図”ではありましたが、途中でそれは自己保身の行動の”効果”に変わっているのです。

これに気づくと、ほんとにこのドラマのミステリーの面白さを存分に味わえる入り口に立てるのですが、このことに気づいている人は、ほとんどいないようです。