2015年3月17日火曜日

私の『Nのために』の解釈

ここから数回に分けて、ドラマの『Nのために』の私のなりの解釈を述べさせて頂く。

ただし、ここで述べる事が現在の解釈とイコールでない部分も含まれる事はご了解頂きたい。

なお、これからの投稿はドラマ公式サイトのメッセージへ投稿した内容を踏襲する。
内容については保存しておいたテキストデータから再掲する


『Nのために』の簡潔な総括

杉下と成瀬の15年の純愛物語。

キルケゴールの実在主義哲学をモチーフとし、余命宣告を受けた杉下が彼女自信の心象として対局にある二つの事件を弁証法的に解消し、主体的真理に目覚め、魂を解放させてゆく過程を綴ったラブストーリー。

但しその結末のみを提示し、事象と結末とのギャップの解消は視聴者側への謎掛けとした。
使った仕掛けは、

タイトル『~ために』という言葉の多義性による、原因と結果、意図のすり替え誘導。(イニシャル操作含む)

キャッチコピー「一番大切な人のことだけ考えた」というフレーズによるステレオタイプの利用と、真の目的の前提条件も"大切"とし得る表現上のレトリック操作。

存在さえ意識させないトリックの巧妙な挿入と視聴者への隠蔽。

この結果、視聴者側では成瀬のライバルとしての安藤がクローズアップされることとなり、その安藤の扱いを消化しきれない状況を発生させ、多様な"解釈"を誘発させる事を狙ったミステリー。

16/01/18 追記
現在でもキルケゴールの実在主義がベースである、との持論には変更がありません。
ただ、それだけでは無い、とも考えています。トラウマを構造主義的制約と捉えることもできるんです。
ですので、現在は『構造主義的制約下におけるキルケゴール的実在主義哲学』がモチーフと考えています。

1 件のコメント:

motoさん さんのコメント...

ここについては、もう少し書いてもいいかな?と感じています。
この後のどこかでも触れているかもしれませんが、ヘーゲル主義についても書かないと片手落ちかな、と感じています。



スカイローズガーデンの処理については、巷でよくある解釈が『みんながみんなのため』に行動した、偽証した、というものです。

確かに各自の行動、偽証による効果はさも”みんながみんなを”的な見え方をする。それはドラマにおいてはトリックであるのだけれども、そう見えるし、またそれが美しくも感じられる。

だけれども、その行動原理は至って各々が自己の利益(と思っている)ものを追求した結果。ある意味利己的、とも評価しうるのですが、それが当人にとって切羽詰まったものであるなら、究極的選択として”あれか、これか”を選択した結果であったわけです。その意味でその行動はキルケゴールの実存主義が、ヘーゲル主義へのアンチテーゼであったわけです。

しかし更に各人、特に杉下に関して言えば、実存主義的に見えるその選択は、実は成瀬に関する、本人も自覚していない程の”精神構造上の拘束”である事が判ります。つまりその部分が構造主義的な部分です。



この物語は、このように見てくると、ヘーゲルが主張した弁証法にのっとり、テーゼとしてヘーゲル主義、そのアンチテーゼとしてキルケゴールの実存主義、その統合、ジンテーゼとしての構造主義で物語が構成されている、という手の込んだ構造が見えてくるんですよね。