2015年7月27日月曜日

作品の思想的バックボーン 再考

私は『Nのために』はキルケゴールの実在主義が思想的バックボーンになっていると思っていました。

しかし、ここまで論考を進めて来た過程で、ちょっと違うのでは?という感覚も芽生えています。

それはキルケゴールの実在主義だけではない、キルケゴールの実在主義+αという感覚です。
ではその+αが何であるのか?

今この作品は何を描いていたのかな、と考えるに
『歪んだ愛の諸形態』
『歪みを抱えた者同士の接触が生む悲劇』
『歪みを抱えた者と抱えていない者との断絶』
『歪みを抱えた者の魂の救済』
のように思えるんです。

『歪んだ愛の諸形態』とは、野口夫妻の間の愛、西崎母子の間の愛、杉下-成瀬の間の愛。
『歪みを抱えた者同士の接触が生む悲劇』とは、奈央子-西崎-杉下の接触による事件の引き寄せ。
『歪みを抱えた者と抱えていない者との断絶』とは、安藤と杉下、西崎間の断絶。具体的には安藤が事件の真相を教えてもらえない事象です。
そして『歪みを抱えた者の魂の救済』とは野口夫妻の死に際の言葉、西崎が自ら犯人になる選択、夏江が声を出して泣けた事、杉下のラストシーンに向けた魂の上昇過程です。

ある種の博愛的な部分を期待されている向きも過去に見ましたが、ここまで観てきてどうも博愛主義的美しさの眞逆に有るのではないか?と感じています。

博愛的に見える行動も、その実その行動をする人間が逃れられない何かに縛り付けられているが故の行動なのでは?と思えるのです。

続く…

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