前項からの続き…
例えば杉下が成瀬に奨学金を譲った行為です。
表面的にとれば、杉下が成瀬の将来を慮っての行為です。
ですが、こうとも取れるのではないでしょか?
成瀬に感情的に縛り付けられている杉下が自らの利益として行動を選択した行為。
つまり歪みにより成瀬に縛り付けられている杉下には、自らの利益と成瀬の利益を同一視しているが故の選択、という解釈です。
後段の”自らの利益と成瀬の利益を同一視しているが故の選択”は実在主義で説明可能です。私がエゴと表現している事と同義です。
しかし、前段”歪みにより成瀬に縛り付けられている杉下”の部分は全て実在主義で説明していいのか?という疑問を抱いています。
実在主義は突き詰めれば無限大の自由と無限大の自己責任になります。
そんな実在主義に対する反発として構造主義が存在します。
構造主義とは非常に単純化すれば、人間は実在主義がいうほどに自由ではない。実在さえ気がつかない諸々の制約が存在する、という考え方です。
判りやすい例では、各言語における虹の色の数を上げることが出来ます。
日本では虹は七色ですが、アメリカでは虹は六色です。
この認識は実在が実在たる前から既に刷り込みされています。
もし、このような刷り込みが、ある種の歪みにより実在を制約しているとしたら?西崎が成瀬に作戦への協力を要請した『歪んだ場所にいると、歪んでいる事にさえ気付かない』ように、実在において歪みにより利他的行為が、利己的行為と同一視されていた場合、それはある種の博愛的行為に見えるのではないか?
もしそうであるなら、それは美しく見えるかもしれないが、非常に悲しいものに思えるんです。
ですので、このドラマの思想的バックボーンとなっていると思うものを改めて記すと、このような表現になります。
『歪みという名の構造主義的制約下にあって、それでも実在としてあらねばならぬ存在のキルケゴール的実在主義』
追記
私は哲学を専門にはしていません。キルケゴールの著作を数冊と解説本を読んだ程度の知識です。
構造主義に関しては思想史として言語分析を発端として起こった、という程度の知識です。
ですので非常に浅はかな知識で書いている事をお断りしておきます。専門的議論には到底耐えられません。
参照
キルケゴールの思想に対する証左
私の『Nのために』の解釈
エゴと『あれか、これか』
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