2015年7月16日木曜日

エゴと『あれか、これか』


私は幾つかの投稿で、スカイローズガーデンにおける事件処理を各登場人物各々の『エゴ』と表現しました。エゴイズムというとあまり良い語感ではありません。利己的、独善的と言ったニュアンスを帯びます。しかし、あえて私がここで『エゴ』と表現するのには理由があります。『エゴ』とはつまり自分にはこれが一番だという価値に基づく行動だと認識しているのです。そういう認識に立つならば、例えその行為が他利的行為であっても『エゴ』と表現していいと思っています。

一方、キルケゴールの実在主義においては、自己とは『自己に関係するところの関係』として規定されています。つまり自分に関係する事柄に対して自分がどのような関係を設定するかで自分が規定される、ということです。

ここで問題にしたいのは、自分に関係する事項に対して自分がどのような関係を設定するか、という部分です。それを規定するのも自分です。つまり自分を規定するのは自分自身の選択、という事です。

キルケゴールの著作に『あれか、これか』というものがあります。簡単に言えば人間は究極においては二者択一の選択を強いられる、というものです。究極の選択。どちらを取るかで、自己が規定される。それを決めるのも自分。当然この時自己が何を選択するかは、自己が一番利益と感じるものです。

この究極の選択の行為及びその結果とは、エゴと等価だというのが私の判断です。

スカイローズガーデンにおける西崎の行動を上記で分析してみます。西崎は奈央子を殺人犯にしたくない。そのために自らが殺人犯になる決意をする。これは他利的行為です。しかし究極の選択においては西崎が無実である事と、奈央子が殺人者とされる事を比較した時、西崎には奈央子が殺人者とされる事の方が耐えられない。ならば奈央子が殺人者とならない方法=自分が殺人者となる。
これはやはり『エゴ』と等価なのです。

スカイローズガーデンの処理においては、各登場人物が各々に究極の選択をした。西崎は自分が殺人者となった。杉下は成瀬のために西崎を切り捨てた。成瀬は杉下のために西崎を切り捨てた。それぞれがそれぞれにとって一番利益となるものを選択し、他を取らなかった。

私がスカイローズガーデンの事件処理がをそれぞれの『エゴ』による、と表現したのは、上記の論理からです。

あえてこのような説明をここで行ったのは、『エゴ』という表現が必ずしも上記のように伝わらず、違った意味で捉えられると主張が正確に伝わらないのでは?と危惧したからです。

用語の解説として、サラッとお読み頂ければ。

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