「…昨日仰ってましたよね、杉下さんとは何もないって。何もない関係で、十年も合わないで、いきなりプロポーズなんて出来ないですよね。それにシェフはその方がプロポーズに応えてくれると思ってるんですよね。だから来たら連絡しろ、て」
私は続けた。
「十五年もの間、同じ気持ちで居続ける事が出来る、そして相手も同じだと思う事ができる。何も無くてなぜそんな風に思えるんですか?」
私は自分が理解できない事をシェフにぶつけた。シェフは答えない。仕事上の事はなんでも答えてくれるのに。
「私なら、例え真面目に付き合っていた相手であっても、十年も会ってない相手にプロポーズ出来ないと思う。そもそも好きな人に十年も合わないでなんて居られない。もしそうなってしまったとしたら…徐々に忘れていかなければ、自分の心が持たないと思う」
「君のご両親は健在だったよね?夫婦仲も良好、そうじゃない?そして経済的にも困ったという事はない」
「…」
「そして人生といういうのは、自らの努力によってのみ開かれる。開かれない人生はその努力が足りないから。そう思っている」
「…はい。そう思っています。だからこそ、人として成長出来ると思っていますし、そうやって人は学習すると。違いますか?」
「それは決して間違いじゃない。人として尊敬すべき姿勢だと思う」
シェフは立ち止まり夕日を眺めた。私はシェフの左に立ち、シェフにならった。私は勇気を出して、シェフの袖を掴んでみた。シェフは拒まなかった。
「でもね…自分の努力じゃ手の届かない所で自分の人生が閉ざされるんじゃないか。自分にできるあらゆる努力もそんな力に抗うことが出来ないんじゃないか。それでも何とかしたい、諦めたくない、頑張れる力が欲しい。人はそんな時、何かをよすがにし、奇蹟を信じるしかない…俺と彼女はそういう関係だった。お互いがお互いをよすがにして、力を得て、奇蹟を信じた」
「だから、今も奇蹟を信じてる…そういうことですか?」
シェフは小さくうなずいた。
「…私がシェフの心に入り込める隙間はないんですね」
シェフは私の方へ向き直った。私はシェフの顔を見上げ、想いのたけをぶつけた。もう、答えは出ているけれど、言わずに済ませる事など出来なかった。
「私、シェフの事が好きです。料理はとっても美味しいし、仕事に向かう姿勢も尊敬しています。厨房のシェフはとっても美しくて、凛々しくて、それでいてふとした時に見せてくれる笑顔がとっても可愛くて。まだほんの一ヶ月だけど、歳も随分離れているけど、シェフの事がとっても好きです。私じゃ駄目ですか?」
「チーちゃんはとっても魅力的な女性だよ。能力も高い。…もっと素敵なパートナーがきっといるさ」
私は今自分が出来る最大限の笑顔を作ってこう伝えた。
「シェフの想い人、還って来るといいですね。でも…もう少しこうしていてもいいですか」
そこまで言い終えて私は嗚咽した。シェフは私の気が済むまで、付き合ってくれた。
0 件のコメント:
コメントを投稿