NOTREに着き受付で今日の宿泊の手続きをしようとした。若い女性スタッフから名前を尋ねられ、杉下希美と答えた。歳の頃は二十歳前後であろう、そのスタッフは顔をパッと赤らめた。どうやら彼から聞かされていた様だ。
〝杉下さんがいらっしゃられたら、宿泊の手続きより先にシェフに連絡しろ、と言われています。仕入れの準備で外に居るはずです〟と返された。
〝荷物はお預かり致しますので、テラスでお待ち下さい。シェフ、ずっと杉下さんの事をお待ちでしたよ〟とも。
彼とはクリスマスの日以来言葉も交わしていない。今日訪れたのも、事前に何も伝えていない。それでも彼は私が来る事を確信している。私も彼が待っていてくれていることを確信している。この相互の確信は一体何処から来るのだろう。それは分からないけれど、これだけは確かだ。お互い十五年も待ち続けた。僅か三ヶ月足らずなど、どうという期間ではない。
一度外に出て、海に面したテラスを目指す。一歩を踏み出すたびに実感する。私は私が本来居るべき場所に帰ってきたんだ。随分と遠回りしたように思う。そこにたどり着くのに十五年もの歳月を要したなんて。でもそれはきっと必要な歳月だったのだろう。
テラスが見えた。その先に見慣れた景色が広がる。澄み渡った青く突き抜ける空と、朝日に波頭が白く輝く蒼い海。思わず小走りになる。そう、私が真に求めていたのは、見るたびにその景色を変えてゆく都会のビルの上から見る水平線ではなく、いつも変わらず同じ表情を見せてくれるこの見慣れた水平線。
手摺に手をかけ、あの日の事を思い出す。今思うと可笑しくなる。子供だったんだな、と思う。あなたを自分の拠り所にし、それを自覚したにも拘らず、誰にも頼らず上を目指す、とあなたに向かって宣言したのだから。あのバルコニーで。
これまでの事が思い出される。沢山の事があり、時に傷付き時に人を傷つけた。それらは全て事実であり、無かった事になど出来ない。その現実に押しつぶされそうになった事もある。罪の意識から必死に逃れようとした時期もある。それが叶わぬとわかった時、全てを諦めそうになった。その時、あなたは私の前に現れた。崩れ落ちそうな橋を、松明を掲げて渡って来た。一度ならず、三度も。
それら全てを私は私の一部として受け入れよう。それら全てが、私がここにたどり着く為に必要な事だったのだ。今なら全ての人と出来事に対して心からの感謝と祈りを捧げる事が出来る。
背後に気配を感じ、振り向いた。軽トラックの傍に立つ、パーカーにビーチサンダルの、あの日と変わらぬ出で立ちのあなた。
成瀬くん、成瀬くん、成瀬くん。私はようやくここに………
「着たよ!!」
「これから仕入れに行くけど、乗る?」
思わず笑みを浮かべて頷いてしまった。助手席を指差すぎこちない腕の動き。未明に自転車で連れ出してくれた時の、荷台を指した時と同じ。そう、私があなたの背中にあなたへの想いを自覚したあの時と。あなたは今も変わらない。私のあなたへの想いも。いや、私は決意を持ってやってきた。あなたの野望が一つかなった時、あなたが流す涙の分以上の何かをあなたの中に残す。涙が枯れても、それでも流れ落ちないだけの何かをあなたの中に残す。そして私はあなたの中で永遠となる。あなたへの想いはこれまでで一番強い。
あなたがゆっくりと此方に歩を進めてくる。その一歩ごとに鼓動が高まる。でも心は穏やかで、あなたとの距離が縮まるにつれ、心の視界が急速に開けてきた。明かりが差し、霧は晴れ、遥か遠くまで見透せる。遮るものは何もない。ああ、私は今、心に一点の曇りもなくあなたの前に立つ事ができる。
私は視線を一度テラスからの景色に戻した。子供の頃から見慣れた景色。でも何かが違う。全ての色がそのコントラストを上げ、鮮やかな色彩を帯びて見える。違う世界にいる様だ。
「何食べたい?」とのあなたの問いに、「美味しいもの!」とリクエストする。
食は徐々に細りつつある。心なしか体力の低下も感じる。残された時間は多くはない。それでも私は幸せだ。残された時間を精一杯生きる。独りでは出来ないそれを、あなたとであれば出来る。奇跡さえも信じる事ができる。
私の左手を取り、それを愛おしそうにあなたの手が弄る。そこに視線を落とすあなた。これまで二度、こうして手を繋いだ。さざなみの時はあなたの言葉になら無い悲しみ、怒り、虚しさが私の中に濁流の様に流れ込んできた。スカイローズガーデンの時はあなたの決意と壮絶な覚悟が私の中で響き渡った。何れもが別れの合図となった。でも今は違う。私にはあなたの慈しみと歓びが見える。あなたとの未来が見える。あなたには何が見えているの?
あなたが視線を上げ、しばらく見つめあった後、ゆっくりと手を引かれる。その身を委ねる。私を包み込む優しい感触。ずっと求め続けてきた感触。諦めていた感触。初めてのはずなのに、何故か懐かしいその感触。その中で感じる。赤子の如く何もかもあなたに委ねる事が出来る私は…私は幸せだ。ありがとう。
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