これは、naoさんから頂いた宿題です。
ここまで行くと、謎解きというより製作者の意図の推測の問題となり、検証のしようもないのですが、ある種の想像は可能ですので、それをしてみます。
私はこの物語はキルケゴールの実在主義哲学がモチーフとしているととっています。
キルケゴールの思想上の特徴は
1.人の有限な時間性
2.主体的真理の追究及び実践
3.絶望とキリストによる魂の救済
です
簡単にいえば、人は死に向かって生きている存在であり、時間は有限である。その有限な時間をどう使うか、その選択は実在に委ねられている。実在にとって本当に何が大事であるかは、個人的なもの(主体的真理)。人はその為に生きようとするが、不完全な存在である人間は完全にはなり得ず、それゆえ絶望する。しかしその絶望でさえ神の前では罪であり、ひたすらに神の奇跡を希求するとき、神は救済に現れ、至福に至る…
つまり、神の救済に至るには、自らの時間が限られたものであるという主体的な認識が不可欠なのです。
この自らの時間が限られたものであるとという主体的な認識が一番伝わりやすい方法が、病気による余命宣告という形だった。その為に製作者は杉下を不治の病に設定した、そう理解しています。
キルケゴールの実在主義はキリスト教的有神論である為、一般的なドラマでそれをそのまま出すのは問題があるでしょう。ですのでその役割を担ったのが成瀬でした。ドラマの中で成瀬は杉下にとって現人神です。神であり且つ杉下の主体的真理=愛の対象として描かれていましたね。ま、多分に杉下の妄想癖が生み出した面もあるのですが。
ちなみにですが、キルケゴールという人物もレギーネ・オルセンという女性に対して強烈な歪みを抱えた人物です。あまつさえ彼の著作の多くが、実はこの女性を真のキリスト者(キリスト教の実践者)へと教化する意図で書かれたもの、と言われています。
また、自分が早くに死ぬ事になる、という強烈な自覚(思い込み)もあったようです。
とにかくその著作は難解で、真に伝えたい事を隠蔽して読者を騙しこむ、という表現手法を多用したそうです。
参照
作品の思想的バックボーン 再考
作品の思想的バックボーン 再考 その二
エゴと『あれか、これか』
杉下は成瀬の何に〝悪魔的絶望〟を抜け出す光を見たのか
魂の解放
崩れ落ちる橋 への二人の答え
キルケゴールの思想に対する証左
私の『Nのために』の解釈
製作者の意図、目標
2 件のコメント:
謎解き枠外のことをお尋ねしたのに、お答えありがとうございました。
「皆さんからいただいたテーマのまとめ」ではいろいろ書かせていただきましたが、今思えば、希美ちゃんが幸せを前に余命が定まっていることが悔しくて、自分なりに納得出来る理由がほしかっただけのような気がします。
夏祭りで浴衣を着て笑っていた女の子が、何故こんな目に遭わなければならないのか?その思いは今も消えません。
けれども、motoさんのお考えを読んで、確信できたことがありました。
希美ちゃんは有限の時間の中で「本当に大事なもの」に出逢い、それを守るという想い・願いを貫き通した。
そして、西崎さん、安藤、野原のおじいちゃんたちに見守られ、成瀬くんという救いであり、魂のかたわれである愛しい人のもとに返ることが出来た。
人生を振り返って「ありがとう」と言えた希美ちゃんは、最後に幸せをつかんだのですね。
naoさん、私も想いは同じです。
何処かで書いたかもしれませんが、私がこのドラマの謎解きにハマったのが、とにかく杉下を幸せする事でした。
それは製作者の仕事ですから、私の仕事は如何に製作者が杉下を幸せにし得るか?それをトレースする事でした。
ラストシーンで杉下は至福を得たように見える。それではどう理解すれば杉下はそこに到達し得ると思えるか?
そんな事ばかり考えているといって良い。この状況で杉下は何を考えるか?杉下にとっての大事とは何か?それが理解出来れば私には本質的には満足なんです。
埋まら無い部分を埋める為にキルケゴールも持ち出したし、自身の経験からの類推もしています。ですから特に自分の経験からの類推に掛かる部分は受け入れていただけ無い部分も多分に有ると思っています。
ここで書いているのは、私的杉下幸福論ですから、自分がそれでは杉下が幸せになり得無い、と思えば、自説を修正するのも抵抗有りません。実際何度も修正してますしね!
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