私は自分のマリア様について、冷静に事をお話しすることが出来ません。それは自分にとって強烈なコンプレックスだからです。文章になるか自信がありません。ですがこのドラマの解釈に、彼女に関する経験が色濃く反映してるのは間違いありません。
大学で彼女と再会した際の事です。
『恥ずかしいという名のシカト』の後、彼女は私のマリア様になりました。そして彼女と接点を持ったのは、その『恥ずかしいという名のシカト』以来の事でした。高校の間も年に数度、部活の大会で出かける際に駅などで顔を合わせましたが、一切会話はありませんでした。それでも彼女は私のマリア様でした。その頃は”マリア様”だなんて呼びませんでしたが、はっきりと自覚はありました。自分の彼女に感じた感情、それをよすがに、苦しい期間を乗り越え、漸く脱出した…
大学一年の前期が終わり、後期に入った頃から、無性に彼女の事が思い出されました。新しい生活にもなれ、リズムを掴んだ頃です。よく外国に出た人が外国にいるからこそ自分が日本人である事を意識する、といった話を聴きますがそれに近い感覚かも知れません。自分という人間の根っこが何であるのか、自分のアイデンティティーとは何か。それを強く意識したんだと思います。自分を見つめ直した時、彼女という存在が自分のアイデンティティーの非常に大きな位置を占めている事に気付きました。単に思い出の一つとして片付けられない何かとして。自分の中で彼女の事が未完である事を自覚しました。
それまで彼女がどうしているのか、全く知りませんでした。場所を聞いて浮かれたました。それは自分と近い場所でした。本当に偶然でした。もう一度彼女との関係を再開出来るかも知れないと思いました。
続く…
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