ラベル 構造主義 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 構造主義 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015年7月28日火曜日

作品の思想的バックボーン 再考 その二

前項からの続き…

例えば杉下が成瀬に奨学金を譲った行為です。
表面的にとれば、杉下が成瀬の将来を慮っての行為です。

ですが、こうとも取れるのではないでしょか?
成瀬に感情的に縛り付けられている杉下が自らの利益として行動を選択した行為。

つまり歪みにより成瀬に縛り付けられている杉下には、自らの利益と成瀬の利益を同一視しているが故の選択、という解釈です。

後段の”自らの利益と成瀬の利益を同一視しているが故の選択”は実在主義で説明可能です。私がエゴと表現している事と同義です。

しかし、前段”歪みにより成瀬に縛り付けられている杉下”の部分は全て実在主義で説明していいのか?という疑問を抱いています。

実在主義は突き詰めれば無限大の自由と無限大の自己責任になります。
そんな実在主義に対する反発として構造主義が存在します。
構造主義とは非常に単純化すれば、人間は実在主義がいうほどに自由ではない。実在さえ気がつかない諸々の制約が存在する、という考え方です。

判りやすい例では、各言語における虹の色の数を上げることが出来ます。
日本では虹は七色ですが、アメリカでは虹は六色です。
この認識は実在が実在たる前から既に刷り込みされています。

もし、このような刷り込みが、ある種の歪みにより実在を制約しているとしたら?西崎が成瀬に作戦への協力を要請した『歪んだ場所にいると、歪んでいる事にさえ気付かない』ように、実在において歪みにより利他的行為が、利己的行為と同一視されていた場合、それはある種の博愛的行為に見えるのではないか?

もしそうであるなら、それは美しく見えるかもしれないが、非常に悲しいものに思えるんです。

ですので、このドラマの思想的バックボーンとなっていると思うものを改めて記すと、このような表現になります。

『歪みという名の構造主義的制約下にあって、それでも実在としてあらねばならぬ存在のキルケゴール的実在主義』

追記
私は哲学を専門にはしていません。キルケゴールの著作を数冊と解説本を読んだ程度の知識です。
構造主義に関しては思想史として言語分析を発端として起こった、という程度の知識です。
ですので非常に浅はかな知識で書いている事をお断りしておきます。専門的議論には到底耐えられません。

参照
キルケゴールの思想に対する証左
私の『Nのために』の解釈
エゴと『あれか、これか』

2015年7月27日月曜日

作品の思想的バックボーン 再考

私は『Nのために』はキルケゴールの実在主義が思想的バックボーンになっていると思っていました。

しかし、ここまで論考を進めて来た過程で、ちょっと違うのでは?という感覚も芽生えています。

それはキルケゴールの実在主義だけではない、キルケゴールの実在主義+αという感覚です。
ではその+αが何であるのか?

今この作品は何を描いていたのかな、と考えるに
『歪んだ愛の諸形態』
『歪みを抱えた者同士の接触が生む悲劇』
『歪みを抱えた者と抱えていない者との断絶』
『歪みを抱えた者の魂の救済』
のように思えるんです。

『歪んだ愛の諸形態』とは、野口夫妻の間の愛、西崎母子の間の愛、杉下-成瀬の間の愛。
『歪みを抱えた者同士の接触が生む悲劇』とは、奈央子-西崎-杉下の接触による事件の引き寄せ。
『歪みを抱えた者と抱えていない者との断絶』とは、安藤と杉下、西崎間の断絶。具体的には安藤が事件の真相を教えてもらえない事象です。
そして『歪みを抱えた者の魂の救済』とは野口夫妻の死に際の言葉、西崎が自ら犯人になる選択、夏江が声を出して泣けた事、杉下のラストシーンに向けた魂の上昇過程です。

ある種の博愛的な部分を期待されている向きも過去に見ましたが、ここまで観てきてどうも博愛主義的美しさの眞逆に有るのではないか?と感じています。

博愛的に見える行動も、その実その行動をする人間が逃れられない何かに縛り付けられているが故の行動なのでは?と思えるのです。

続く…