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2015年8月24日月曜日

なぜ製作者は杉下を不治の病に設定したのか?

これは、naoさんから頂いた宿題です。
ここまで行くと、謎解きというより製作者の意図の推測の問題となり、検証のしようもないのですが、ある種の想像は可能ですので、それをしてみます。

私はこの物語はキルケゴールの実在主義哲学がモチーフとしているととっています。
キルケゴールの思想上の特徴は
1.人の有限な時間性
2.主体的真理の追究及び実践
3.絶望とキリストによる魂の救済
です

簡単にいえば、人は死に向かって生きている存在であり、時間は有限である。その有限な時間をどう使うか、その選択は実在に委ねられている。実在にとって本当に何が大事であるかは、個人的なもの(主体的真理)。人はその為に生きようとするが、不完全な存在である人間は完全にはなり得ず、それゆえ絶望する。しかしその絶望でさえ神の前では罪であり、ひたすらに神の奇跡を希求するとき、神は救済に現れ、至福に至る…

つまり、神の救済に至るには、自らの時間が限られたものであるという主体的な認識が不可欠なのです。

この自らの時間が限られたものであるとという主体的な認識が一番伝わりやすい方法が、病気による余命宣告という形だった。その為に製作者は杉下を不治の病に設定した、そう理解しています。

キルケゴールの実在主義はキリスト教的有神論である為、一般的なドラマでそれをそのまま出すのは問題があるでしょう。ですのでその役割を担ったのが成瀬でした。ドラマの中で成瀬は杉下にとって現人神です。神であり且つ杉下の主体的真理=愛の対象として描かれていましたね。ま、多分に杉下の妄想癖が生み出した面もあるのですが。

ちなみにですが、キルケゴールという人物もレギーネ・オルセンという女性に対して強烈な歪みを抱えた人物です。あまつさえ彼の著作の多くが、実はこの女性を真のキリスト者(キリスト教の実践者)へと教化する意図で書かれたもの、と言われています。
また、自分が早くに死ぬ事になる、という強烈な自覚(思い込み)もあったようです。
とにかくその著作は難解で、真に伝えたい事を隠蔽して読者を騙しこむ、という表現手法を多用したそうです。

参照
作品の思想的バックボーン 再考
作品の思想的バックボーン 再考 その二
エゴと『あれか、これか』
杉下は成瀬の何に〝悪魔的絶望〟を抜け出す光を見たのか
魂の解放
崩れ落ちる橋 への二人の答え
キルケゴールの思想に対する証左
私の『Nのために』の解釈
製作者の意図、目標

2015年7月29日水曜日

杉下の父親について


杉下の父親についての、皆さんの評価はどのようなものでしょうか?

想像するに、身勝手な自分本位のどうしようもない父親、という評価が一般的ではないかと思います。

私は多少違う見方です。
彼は自分の寿命は後三年、と明確に意識していました。残された自分の時間を強烈に意識したのです。
実在主義哲学では、実在が有限な時間的存在である、とされています。つまり『死に向かって今と未来を生きる』存在。
限られた時間を意識すれば意識するほど、その時間をどう使うか、その使い方に自らが納得できるか、という事を考える。
富も名声もあの世へは持っていけない。死ぬ時は常に孤独。誰も寄り添ってはいない。死の間際に自分が幸せであったと思って臨むことが出来るか?それが非常に問題になる。

杉下の父親は強烈にそれを意識したんです。
娘婿として会社を継ぎ、家族の為、従業員の為身を粉にして働いたに違いありません。自分を抑圧し周囲の幸せを優先して生きてきたんだと思います。如何に倫理的に生きるか、腐心したでしょう。でも彼は絶望した。如何に倫理的に生きようともそれで満足し得ない自分が存在していた。その中で自らの限られた時間を意識した時、今いる絶望から抜け出す為に実在的選択をした。実在的選択とはつまり究極の選択、『あれか、これか』を行ったのです。

彼が夏祭りを見守る際に見せた孤独の表情は、悲しみに満ちていました。
ですから、結果として彼の行為はエゴイスティックではあったけれども、無責任であるとか身勝手という表現だけでは説明しきれない、実在主義的選択の一つの形であったと思うのです。

参照
解釈の解説1 キルケゴールの実在主義
魂の解放

2015年7月28日火曜日

作品の思想的バックボーン 再考 その二

前項からの続き…

例えば杉下が成瀬に奨学金を譲った行為です。
表面的にとれば、杉下が成瀬の将来を慮っての行為です。

ですが、こうとも取れるのではないでしょか?
成瀬に感情的に縛り付けられている杉下が自らの利益として行動を選択した行為。

つまり歪みにより成瀬に縛り付けられている杉下には、自らの利益と成瀬の利益を同一視しているが故の選択、という解釈です。

後段の”自らの利益と成瀬の利益を同一視しているが故の選択”は実在主義で説明可能です。私がエゴと表現している事と同義です。

しかし、前段”歪みにより成瀬に縛り付けられている杉下”の部分は全て実在主義で説明していいのか?という疑問を抱いています。

実在主義は突き詰めれば無限大の自由と無限大の自己責任になります。
そんな実在主義に対する反発として構造主義が存在します。
構造主義とは非常に単純化すれば、人間は実在主義がいうほどに自由ではない。実在さえ気がつかない諸々の制約が存在する、という考え方です。

判りやすい例では、各言語における虹の色の数を上げることが出来ます。
日本では虹は七色ですが、アメリカでは虹は六色です。
この認識は実在が実在たる前から既に刷り込みされています。

もし、このような刷り込みが、ある種の歪みにより実在を制約しているとしたら?西崎が成瀬に作戦への協力を要請した『歪んだ場所にいると、歪んでいる事にさえ気付かない』ように、実在において歪みにより利他的行為が、利己的行為と同一視されていた場合、それはある種の博愛的行為に見えるのではないか?

もしそうであるなら、それは美しく見えるかもしれないが、非常に悲しいものに思えるんです。

ですので、このドラマの思想的バックボーンとなっていると思うものを改めて記すと、このような表現になります。

『歪みという名の構造主義的制約下にあって、それでも実在としてあらねばならぬ存在のキルケゴール的実在主義』

追記
私は哲学を専門にはしていません。キルケゴールの著作を数冊と解説本を読んだ程度の知識です。
構造主義に関しては思想史として言語分析を発端として起こった、という程度の知識です。
ですので非常に浅はかな知識で書いている事をお断りしておきます。専門的議論には到底耐えられません。

参照
キルケゴールの思想に対する証左
私の『Nのために』の解釈
エゴと『あれか、これか』

2015年7月27日月曜日

作品の思想的バックボーン 再考

私は『Nのために』はキルケゴールの実在主義が思想的バックボーンになっていると思っていました。

しかし、ここまで論考を進めて来た過程で、ちょっと違うのでは?という感覚も芽生えています。

それはキルケゴールの実在主義だけではない、キルケゴールの実在主義+αという感覚です。
ではその+αが何であるのか?

今この作品は何を描いていたのかな、と考えるに
『歪んだ愛の諸形態』
『歪みを抱えた者同士の接触が生む悲劇』
『歪みを抱えた者と抱えていない者との断絶』
『歪みを抱えた者の魂の救済』
のように思えるんです。

『歪んだ愛の諸形態』とは、野口夫妻の間の愛、西崎母子の間の愛、杉下-成瀬の間の愛。
『歪みを抱えた者同士の接触が生む悲劇』とは、奈央子-西崎-杉下の接触による事件の引き寄せ。
『歪みを抱えた者と抱えていない者との断絶』とは、安藤と杉下、西崎間の断絶。具体的には安藤が事件の真相を教えてもらえない事象です。
そして『歪みを抱えた者の魂の救済』とは野口夫妻の死に際の言葉、西崎が自ら犯人になる選択、夏江が声を出して泣けた事、杉下のラストシーンに向けた魂の上昇過程です。

ある種の博愛的な部分を期待されている向きも過去に見ましたが、ここまで観てきてどうも博愛主義的美しさの眞逆に有るのではないか?と感じています。

博愛的に見える行動も、その実その行動をする人間が逃れられない何かに縛り付けられているが故の行動なのでは?と思えるのです。

続く…

2015年7月16日木曜日

エゴと『あれか、これか』


私は幾つかの投稿で、スカイローズガーデンにおける事件処理を各登場人物各々の『エゴ』と表現しました。エゴイズムというとあまり良い語感ではありません。利己的、独善的と言ったニュアンスを帯びます。しかし、あえて私がここで『エゴ』と表現するのには理由があります。『エゴ』とはつまり自分にはこれが一番だという価値に基づく行動だと認識しているのです。そういう認識に立つならば、例えその行為が他利的行為であっても『エゴ』と表現していいと思っています。

一方、キルケゴールの実在主義においては、自己とは『自己に関係するところの関係』として規定されています。つまり自分に関係する事柄に対して自分がどのような関係を設定するかで自分が規定される、ということです。

ここで問題にしたいのは、自分に関係する事項に対して自分がどのような関係を設定するか、という部分です。それを規定するのも自分です。つまり自分を規定するのは自分自身の選択、という事です。

キルケゴールの著作に『あれか、これか』というものがあります。簡単に言えば人間は究極においては二者択一の選択を強いられる、というものです。究極の選択。どちらを取るかで、自己が規定される。それを決めるのも自分。当然この時自己が何を選択するかは、自己が一番利益と感じるものです。

この究極の選択の行為及びその結果とは、エゴと等価だというのが私の判断です。

スカイローズガーデンにおける西崎の行動を上記で分析してみます。西崎は奈央子を殺人犯にしたくない。そのために自らが殺人犯になる決意をする。これは他利的行為です。しかし究極の選択においては西崎が無実である事と、奈央子が殺人者とされる事を比較した時、西崎には奈央子が殺人者とされる事の方が耐えられない。ならば奈央子が殺人者とならない方法=自分が殺人者となる。
これはやはり『エゴ』と等価なのです。

スカイローズガーデンの処理においては、各登場人物が各々に究極の選択をした。西崎は自分が殺人者となった。杉下は成瀬のために西崎を切り捨てた。成瀬は杉下のために西崎を切り捨てた。それぞれがそれぞれにとって一番利益となるものを選択し、他を取らなかった。

私がスカイローズガーデンの事件処理がをそれぞれの『エゴ』による、と表現したのは、上記の論理からです。

あえてこのような説明をここで行ったのは、『エゴ』という表現が必ずしも上記のように伝わらず、違った意味で捉えられると主張が正確に伝わらないのでは?と危惧したからです。

用語の解説として、サラッとお読み頂ければ。

2015年4月2日木曜日

杉下の『N』


『Nのために 論考』


前回までで、オフィシャルサイトの投稿締め切り時点での私の認識の到達点までを説明させて頂きました。

このドラマで最後まで明かされる事の無かったスカイローズガーデンでの杉下の『N』=成瀬と結論しました。

それはただ単にラストシーンからの類推でなく、キャラクターへの思い入れでもなく、冷静にミステリーとしてのトリックの挿入可能性を検証して、四人の行動原理を分析した結果の論理的帰結としての結論であり自信を持って主張出来るものでした。その結果としての杉下の魂の上昇プロセスについてもキルケゴールの実在主義哲学のエッセンスを織り込んで表現出来たと思っていました。

しかし、「3月16日の衝撃」でも書きましたが、とんでもない可能性に気が付き、今ではそれは確信となりました。
まだ全ては解明出来ていません が、間違いありません。

私は自説のスカイローズガーデンでの杉下の『N』=成瀬、の見解を撤回します。

杉下の『N』=西崎、です。

オフィシャルサイトで私の意見、解釈、見解に賛同頂いた方々、本当に申し訳有りません。
また同じくオフィシャルサイトで私が意見差し上げた方々、生意気言ってすみませんでした。

安藤の外鍵の隠蔽取引説の奥に、もう一つのバックドアの存在の可能性に気付いてしまったのです。

それは杉下自身が定義する「究極の愛」と関係します。

〝罪の共有…共犯じゃなくて共有。誰にも知られずに相手の罪を自分が半分引き受けること…誰にもってのはもちろん相手にも…罪を引き受け、黙って身を引く〝

確かに杉下の『N』=西崎説は一部のネタバレサイトで展開されていた論であるのは自分も承知していました。でもその何れもが罪の共有関係に着目していて、結局は成瀬も安藤も罪の共有者、みたいな自分の頭で考えてないだろ、といったものばかりだったので無視していたんです。

私が重視したのは罪の共有よりも、後段。〝相手にも気がつかれずに、黙って身を引く〝という部分です。

想像してみてください。
もし杉下が、彼女自身が定義した究極の愛をスカイローズガーデンの事件の前から遂行しつつあったとしたら?
その対象は状況証拠として一番相応しいのは三人のうち誰か?

安藤、成瀬では、〝相手にも気づかれずに、黙って身を引く〝という定義にそぐわないでしょう。
そうするとこの定義に一番似つかわしい相手は西崎という事になる。

自分でかつて偉そうに言い切りました。『ミステリーにおいて論理的可能性は必然』と。

ですが、ここで困った事が発生する事になるんです。杉下が本当に『究極の愛』を完璧に実施していたとしたら、ドラマで描写されない。つまり、論理的可能性としての必然がその定義の故に描写し得ず、それゆえその存在を証明できない、というパラドックスを生み出すんです。

単に西崎というだけでなく、論理的必然としてパラドックスが発生した事に愕然しました。
そんなオチがあったんかい、としばらく体の震えが治りませんでした。










2015年4月1日水曜日

崩れ落ちる橋 への二人の答え

『Nのために 論考』
今日はラストシーンにも大きく影響するエピソードとして、西崎は何故杉下の病気を安藤で無く成瀬に伝えたのか?について触れておきます。


西崎の『崩れ落ちる橋』の質問に対する二人の回答。
安藤の"なんでもする!"と成瀬の"呼ばれれば、渡る"の選択。
西崎の判断基準は何だったのでしょう?
成瀬の方が弱い、と一見思える。
西崎の質問には"他の選択肢が無い中で"という暗黙の前提が置かれていて、それでも渡るか?ジャンプ出来るか?という事を問うたのだと思うのです。"奇跡を信じられるか?"と。

これについては、やはりキルケゴールの実在主義哲学で読み解く必要があると思うのです。
キルケゴールの哲学ではこの"理屈を超えた何かを信じられるか?"というのが、真理概念、自由概念の重要なキーとなってます。
また実在哲学では自由には必ず責任が伴うものとされています。

安藤の回答は、その暗黙の前提を了解していない回答。他の選択肢を探す、という含みがある。
更にはこの「他の選択肢」には、スカイローズガーデンでの外鍵のような利己的なギャンブル行為も含まれ得る、という匂いが漂うんですね。
一方成瀬の回答は、その暗黙の前提を了解した上での回答で、"それでも渡る"という宣言になる。
つまり、西崎はあえて前提を隠した上で、その前提を踏まえた回答が出来るかをテストしたんだと思う。

成瀬は奇跡を信じて飛び込める、杉下に対する責任を自ら引き受ける男、というふうに西崎は判断したのだと思います。

16/01/18 追記
結局西崎は何判断基準にしたのか?という事なんです。
この時西崎は杉下がキルケゴールのいう『悪魔的絶望』にあると観たのです。
キルケゴールのいう『悪魔的絶望』とは神による救済さえ拒絶する心理状態です。
これを救うためには、杉下が自分が『救われうる存在』であると、『救われていい存在』であるときづく、気付かせる事ですが、これを『救済を拒絶する者』に起こす事はある意味奇蹟なのです。
奇蹟を起こす方法はたった一つしか有りません。『今にも崩れそうな吊り橋を渡る』意外に方法が無い。
答えは渡る、か渡らないか、それ以外の答えは存在しない。しかし安藤の答えは『なんだってする』。
つまり、存在しない他の可能性を模索するというもの。それはつまり目の前にある唯一の可能性である吊り橋を『渡れ無い』という意味です。つまり安藤は奇蹟を信じる事が出来ないのです。
奇蹟を起こすべく、働きかける対象(杉下)に対して奇蹟を信じない者(安藤)がいくら働きかけても、奇蹟など起きるはずが無い。だから安藤は失格、と西崎は判断した事になります。

2015年3月25日水曜日

キルケゴールの思想に対する証左


本日でひとまず、ドラマがキルケゴールの実在主義哲学がモチーフになっている、という主張の証左を終えようと思います。

本日はキルケゴールの哲学内容と関連する部分について述べます。

キルケゴールの思想上の特徴は

人の有限な時間性
主体的真理の追究及び実践
絶望とキリストによる魂の救済

です
杉下及び杉下の父親の寿命への意識は上記の人の有限な時間性についての証左。

キルケゴールはキリストによる救済を拒絶する真理状態を”悪魔的絶望”と読んでいます。これは現代編での成瀬が現れる前の、誰の助けも得ようとしない頑なな杉下の真理状態に対応しています。

魂の救済、及びそのプロセスは映像表現として難しい部分がありますが、絶望状況にあった杉下が成瀬と再会してから以降、島で成瀬に身を任せるまでの部分が対応していると思います。

成瀬の申し出には”甘えられない”という表現で成瀬の申し出を保留しました。これはキルケゴールが魂の救済過程の初期に現れるとした”怖れと慄き”。手を差し伸べている救済者に対して、身を任せられない心理状況です。

母親との和解では、再会の直前で逃げ出すという事をしています。これは魂の救済のプロセスで陥りうるとした”躓き”と表現される部分。

島で成瀬に身を預ける段階が魂の救済


主体的真理の発見・気付きについては残念ながら映像表現をしようの無い部分なので状況からの推測になります。

成瀬との再会の後、主治医に”誰も悲しませずに死ぬことはできないのか?”と聞いている事から、成瀬との会話が杉下の頑なな心を解き、主体的真理への胎動が生まれ、主治医から”誰も悲しませずに死ぬことなで出来ない”と諭された事で主体的真理の発見・気付き・希求が発生したと理解しました。

高野と会った際の杉下の表情はこれまでとは変わって、明るく、服装も黒のモノトーンから白黒のツートンとなっていた事。それ以前には子供を見ると涙ぐんでいたのが、弟の子供の写真を愛おしく見ている事などから、この間に杉下の認識の変化があった事が判ります。


西崎の”崩れ落ちそうな橋”については、キルケゴールが人間の可能性に対する不安を谷を引き合いに説明しています。その証左と判断しています。

写真&シャッター音は、キルケゴールの時間論との関連ですが、キルケゴールは瞬間を”永遠が有限な時間に介入して、何かを生成するその時”と表現していますので、その表現であったと。これから何かが起こる、変化が発生する、というシーンで必ずありましたね。

以上で、ドラマがキルケゴールの実在主義哲学がモチーフとなっている、という説明については終了いたします。

16/01/18 追記
瞬き&シャッター音については、その全てが『瞬間記憶』では無い、というのが現在の解釈です。
一部にフラッシュバックとしての描写があります。
現代編で、高野が杉下宅を訪ね、インターフォン越しに高野を認めた際の瞬き&シャッター音はその後に続く『一瞬で蘇る〜』杉下のモノローグからフラッシュバックである事が判ります。

物語の弁証法的展開

『Nのために 論考』
引き続きドラマがキルケゴールの実在主義哲学である、との私の見解の証左を解説してゆきます。
今日は物語の弁証法的展開についてです。

キルケゴールは弁証法を駆使してその思想を展開して行きました。 これはキルケゴールの時代、ヘーゲル哲学が持て囃された事に対するアンチテーゼとして同じ弁証法を駆使して、ヘーゲル哲学が描かない、論理的には説明しえない個人の問題を描こうとしたためです。
弁証法においてはテーゼに対するアンチテーゼという形で二つの対称性・対照性を統合(ジンテーゼ)する、という方法がとられます。 
この物語は、描写としては相互に入り組んだ編集がされており、解りづらいのですが、三部で構成されています。
第一部がさざなみ放火事件に代表される青景島編。
第二部がスカイローズガーデン殺人事件事件に代表される東京編。
第三部がラストシーンが代表する現代編。
対称性・対照性についての証左でも触れましたが、さざなみを”偶然と勘違いと思いやりによる美”=テーゼとし、スカイローズガーデンを”必然とエゴと打算による醜”=アンチテーゼとし、その二つの事件を現代編に於いて統合=ジンテーゼとする、という構造です。
 

2015年3月23日月曜日

『Nのために 論考』対称性・対称性 さざなみ放火事件とスカイローズガーデン殺人事件 その三

さざなみとスカイローズガーデンでの対称性・対照性の付記として、さざなみにおける杉下の誤解による、杉下の認識のねじれについて触れておきます。

事実関係に基づくポジションについては、昨日投稿した通りなのですが、杉下の行動を理解するうえで、彼女の認識を理解しておく事が必要です。

さざなみにおける杉下の誤解は、さざなみ放火犯は成瀬だ、というものです。
これには伏線があります。

その前日に杉下が苦しみの余り、追い出された実家(父親と愛人が住む)を放火しようとしました。
成瀬がそれを止めたのですが、杉下の苦しみを見かねた成瀬が、〝杉下を犯罪者にしたくない、俺がやる〝と代理放火をしようとした事実がある。
成瀬の代理放火は杉下が止めたのですが、成瀬も翌日にはさざなみを出て行く予定であり、二人が共通して抱えていたのが、〝燃やしてしまえば、大事な場所を誰にも取られない〝という思いでした。
そしてさざなみが燃えている現場を見つめる成瀬を見つけた杉下は、成瀬が本当にやった、自分の代わりに本当にやったと勘違いしてしまった。

この結果、杉下は自身の認識として、自分が夏恵のポジション=事実を知る人、であり、かつスカイローズガーデンでの安藤に似たポジション(事件のトリガーとなる行為をした)だ、という認識であった、という事です。

ここでの誤解が後の15年に影響を与えます。



2015年3月22日日曜日

対称性・対称性 さざなみ放火事件とスカイローズガーデン殺人事件 その二

さざなみとスカイローズガーデンの二つを構造的に分析した結果を詳述します。
各ポジションでの各キャラクターの行動、動機、結果、時制がなにがしか逆転している事がお判り頂けると思います。

私は、オフィシャルサイトへのメッセージ投稿でも書きましたが、将棋における〝同一駒配置の手番組違い〝だと表現しました。静的なシンメトリー性と、動的なベクトルの逆転現象及び結果の違いを表現する方法として一番適切なように思えたからです。


犯人
さざなみ:成瀬父
行動は自殺目的の放火
行動動機は成瀬の進学資金を捻出する為
結果は夏恵に救助され生存

スカイローズガーデン:奈央子
行動は野口殺害
行動動機は野口との揉み合いで危機に陥った西崎を助けるため
結果は自殺、死亡

嫌疑を受けた人
さざなみ:成瀬
行動は〝自分はやってない(誰がやったのかも知らない)〝
行動動機は犯人である父親の保護
結果は自分及び父親双方とも逮捕されず

スカローズガーデン:西
行動は〝自分がやった〝
行動動機は犯人である奈央子の保護
結果は逮捕、服役

捜査機関に対して隠蔽行動を取った人
さざなみ:杉下
行動は無かった事をあった事をとする偽証〝成瀬と会っていた〝
行動動機は自身が犯行を疑った、嫌疑を受けた成瀬の保護
結果は成瀬との別れ

スカイローズガーデン:成瀬
行動はあった事を無かった事をとする偽証〝鍵はかかっていなかった〝
行動動機は杉下を嫌疑から除外する為
結果は杉下との別れ

事実を知る人
さざなみ:夏恵
行動は証拠隠滅、犯人を知っている事自体を隠す
行動動機は成瀬親子の保護
結果は声を失う

スカイローズガーデン:杉
行動は成瀬への外鍵隠蔽依頼(あった事を無かったことにする)
行動動機は成瀬の保護。偶然を装う事でさざなみ放火事件まで蒸し返される事を恐れた。
結果は病による余命宣告

実を知りたい人
さざなみ: 高野
行動は スカイローズガーデン関係者へのインタビュー。タイミングは事後
行動動機は夏恵が声を失う事になってしまったさざなみ放火事件の真相解明
結果は夏恵が事実を知る人であり、自分の行動が夏恵を苦しめていた事の理解

スカイローズガーデン:安藤
行動は外鍵を掛ける事。タイミングは事前
行動動機は危機状況で杉下が助けを求めるのは自分かどうかを知るため
結果はその他三人から事件の真相を隠されている。仲間ハズレ、疎外。


対称性・対称性 さざなみ放火事件とスカイローズガーデン殺人事件 その一

さて、今日は物語で提示された対称性・対照性の内、特にさざなみ放火事件とスカイローズガーデン殺人事件については詳述したいとおもいます。

私がこのドラマにはまった一番のポイントであり、私の謎解きのスタート地点でもあります。

二つに事件では、同じ役割を担ったキャラクターがそれぞれに配置されたいました。
しかし、それを動的に観察すると、相互に原因・意図・行動・結果・時間を反転させた対構造となっているんです。さらにはさざなみにおいては勘違いからその構造にねじれが発生してしまい、さらに解りづらくなっています。

これはかなり複雑な構造で、製作者が徹底的に作り込んだ部分です。ドラマの真相を理解する上でも重要です。

その上で、さざなみは”偶然と勘違いと思いやりによる美”を、スカイローズガーデンでは”必然とエゴと打算による醜”を描き出している、というのが2つの事件の対称性・対照性です。


2015年3月20日金曜日

対称性・対照性

ドラマがキルケゴールの実在主義のモチーフである根拠を述べてゆきます。 
次は対称性・対照性についてです。 
 これも皮肉(イロニー)と併せ、多くの例があります。 
キルケゴールは弁証法を駆使してその思想を展開して行きました。
これはキルケゴールの時代、ヘーゲル哲学が持て囃された事に対するアンチテーゼとして同じ弁証法を駆使して、ヘーゲル哲学が描かない、論理的には説明しえない個人の問題を描こうとしたためです。
弁証法においてはテーゼに対するアンチテーゼという形で二つの対称性・対照性を統合(ジンテーゼ)する、という方法がとられます。 
 対象性・対照性の例を挙げてゆきます。 
他にも見つけられた人はがいらっしゃれば、ぜひ教えて下さい。

 お城と幽霊屋敷
杉下は〝お城〝と呼ばれていた実家を追い出されて、地元の子供からも〝幽霊屋敷〝と呼ばれていた集落の一番外れにある古びた一軒家に居を移すことを余儀なくされました。

 スカイローズガーデンと野ばら荘 
名称も空と地、実際の居住環境としても一方はタワーでセキュリティも万全なマンションであるのに対して、もう一方は築70年にもなるオンボロ格安アパート

 杉下と西崎
さざなみが燃え上がる炎を見て、苦しみから救われた杉下と、母親からの炎によるDvとその母親が亡くなった原因も火災であるという強烈な炎に対するトラウマを抱えた西崎。

 さざなみ放火事件とスカイローズガーデン事件
製作者の意図により作り出された対称性と対照性を持つ二つに事件。対称性と対照性が多重構造として形成されていています、これについては別途詳述するつもりです。

2015年3月19日木曜日

皮肉の例その二


引き続き、ドラマで描写された皮肉の例をあげます

さざなみ放火事件の後、声が出なくなった夏恵を思い、真実を知りたがった高野であったが、さざなみ放火事件の真相を知っていたのが他ならぬ夏恵であり、証拠隠滅までしていたという事

さざなみ放火事件で放火を疑われた成瀬が放火犯では無かった事。あまつさえその前日に杉下が自宅に放火しようとした際に取り上げたオイルを処分していた事。及び杉下がその後15年にわたり必死に成瀬を庇おうとした行為が単なる勘違いであったという事

さざなみ放火事件で病院へ向かおうとする高野のパトカーの中で奨学金の申込書を成瀬に渡す際に杉下が成瀬に囁いた言葉が視聴者が期待した〝愛してる〝ではなく、〝成瀬くんなら何にだってなれるよ〝である事

スカイローズガーデン殺人事件の真相は、野口夫妻の歪んだ夫婦愛の故の心中であった事


西崎が夫のDVから助けようとした奈央子の真意は、奈央子が野口に言い寄ろうとしていると勘違いをした杉下を、野口から引き離して欲しいという事であった、という西崎の勘違い

企業社会に於いて、僻地への赴任が必ずしも左遷でない、むしろチャンスである事を理解出来ない杉下と、その杉下が誤った認識により野口へ挑発行為を行い事件の凄惨化のトリガーを引いた事。


血の付いたブランケットを右手に持ち、左手に持ったものはナイフでなく携帯電話で、視聴者の予想を裏切り、凶行には全く関わっていない成瀬


愛する人が犯罪を犯したら一緒に警察へ行くと宣言していた安藤が、杉下が自分と成瀬のどちらを頼るか?という事を知りたいが為に事件の凄惨化につながった外鍵を掛ける、という行為に及び、かつ自分の行為については証言を躊躇った事


高校時代に経験したどん底からの脱出の為に形成された杉下の〝上に行く〝強迫観念と、その結果としてたどり着いた、平凡さに心の平静を求める心理状況


他にも気付かれた皮肉があれば、皆さんより教えていただきたいです。

16/01/18
安藤が自分の行為について口を噤んだのは、杉下に嫌疑が掛からないよう、作戦の存在を隠蔽するためです。当初の解釈では自身の保身の為、と判断していましたが、それは違います。
彼は事件の真相が奈央子による心中だと理解していました。しかし計画の存在が警察にバレると杉下に殺人の嫌疑がかかる事になるため、それを回避する意図で口を噤んだのです。

皮肉の例 その一

ドラマがキルケゴールの実在主義をモチーフとしていると判断した根拠について個々に述べてゆきます。

このドラマでは皮肉(イロニー)、対象性が非常に多用されていました。

キルケゴールの思想の道具立ては皮肉の多用と弁証法の駆使です。
対称性及び弁証法については後日別途触れるつもりですが、皮肉の多用についてはキルケゴールがソクラテスの影響を受けているそうです。またキルケゴールが生きた時代も後期ロマン主義の時代に重なっています。

皮肉の例を列挙します。


自身の寿命はあと3年だから自分の思い通り生きる、と宣言し家族を放り出した父親が、現在でもピンシャンで生きているにも拘らず、その父親の暴挙で辛酸を舐めた杉下が、本当に余命宣告を受けてしまった事。


父親の暴挙と母親の贅沢発作により、今日食べるものにさえ事欠いた事が杉下の食へのトラウマ(冷蔵庫の中を満たさないと、という強迫観念)を形成した。そのようなトラウマを経験した杉下を襲った病が、食べる事さえ困難となる胃がんであったという事。


食べるに事欠き、父親の愛人に土下座までして得た食事が、愛ある母親の作る料理より断然美味いという現実

続く

16/01/18 追記
食へのトラウマ=冷蔵庫のトラウマは、現在の解釈では存在しない、と判断しています。
冷蔵庫、もしくは食が彼女の心的外傷を直接的には形成しえないからです。
冷蔵庫が冷蔵庫を満杯にするのは、彼女の行動特性の結果と見ています。
調理に没頭して食を大量に作る事が彼女のストレス発散法で、その結果で冷蔵庫が満杯になる、というのが現在の解釈です。

2015年3月17日火曜日

解釈の解説1 キルケゴールの実在主義

私はドラマ『Nのために』はキルケゴールの実在主義がモチーフになっていると判断しました。 
根拠は以下のとおりです。 

 皮肉、対象性の多用
 物語の弁証法的展開 
 杉下、及び杉下の父親の寿命への意識 
 西崎の”崩れ落ちそうな橋” 
 随所に織り込まれた写真&シャッター音、瞬間記憶 
現代編での成瀬が現れる前の、誰の助けも得ようとしない頑なな心理状態 
巧妙なトリックの挿入による視聴者への真意の隠蔽と騙し 

 ひとつひとつの解説は別途投稿いたします。