2015年5月29日金曜日

『愛はないかもしれないが、罪を共有してくれ』はトリックか?


5月28日の投稿『偽証を匿うための偽証は罪の共有か?』で指摘した事項です。

西崎が杉下に偽証を要求した言葉
『お前の究極の愛は罪の共有なんだろう。愛は無いかもしれないが罪を共有してくれ。』

この言葉はトリックなのではないか、と今疑っています。

この言葉をトリック、ミスリードを誘うための道具とした場合、隠蔽されたものはなんなのか?
一つは、西崎がこの事件における杉下の究極の愛の相手である、という事。
もう一つが西崎、杉下、成瀬三人の偽証が罪の共有などでは無く、それぞれのエゴによる共謀であったという事です。
これを視聴者に対して隠蔽した。

 エゴの隠蔽はそれの少し前に西崎自身が発した「殺人の動機が愛などという美名であってはならない。自分が犯人であれば復讐になる。」と対応していると思うんです。
西崎の美意識を偽装・偽証に当てはめると『殺人犯偽装の理由が罪の共有などという美名であってはならない』 
この表現、西崎の美意識にピッタリ来るんですね。そして実際に三者三様のエゴを通すための共通方法としての偽証という共謀が成立した。
このエゴによる共謀を罪の共有にすり替えた結果、視聴者に誤った罪の共有関係を刷り込み、その結果として杉下の成瀬を護る意図を隠蔽、杉下の意図は安藤を守る、というミスリードを誘ったんだと思われます。

もうひとつの杉下の究極の愛の相手=西崎、の隠蔽は一つには予防線だったと思います。
杉下のモノローグ「大切な人が一番傷付かない方法を考えた」には、西崎が自分が殺人犯となる事を希望している=それが西崎が一番傷付かない方法、という論理が成立し、かつステレオタイプとして大切な人=愛する人=西崎という論の展開は十分あり得た。それをこの発言で隠蔽した。その意図は、何故スカイローズガーデンの事件が起きてしまったのか?という物語の根源的な理由そのものを視聴者に隠蔽する事だったのではないでしょうか?

ではそれが何であるかというと、『究極の愛』という、杉下の心に巣食うモンスターとそれが生み出したN作戦2に挑む際の杉下の魂胆だったのだと思います。

※5月13日 杉下の『究極の愛』の本当の意味 参照
※5月16日 N作戦2における杉下の魂胆 参照

1 件のコメント:

motoさん さんのコメント...

ここで西崎に『罪の共有』を語らせた効果はデカかったですね。どんな人も、このスカイローズガーデンでの杉下の偽証、成瀬の偽証を『罪の共有』で語る事になり、それ以上の認識に到達していなかったと思うのです。
例えばここで成瀬が杉下が共有した西崎の罪をまた半分共有した、という解釈がありましたが、そうすると成瀬はなぜ西崎の罪を共有する必要があるのか?その必然性がまったくないのです。成瀬と西崎の関係性にそのようなものはありません。ではなぜ成瀬が偽証した(少なくとも偽証に向けたフレームワークの提示=3人があったのは偶然、その前にはあっていない)を提示した意図はどこにあったのか?がぼやけてしまう。

また、この解釈が破綻しているのは杉下の偽証の受け入れタイミングと成瀬が出した指示の状況を無視しているんです。
杉下は最初に西崎の要求を拒絶しているんですね。杉下が偽証を受け入れたのは成瀬の指示によるものです。そして成瀬の指示も彼が事件の状況を主体的に判断し、指示したもので、杉下と成瀬の間に状況について情報や意向を確認するようなやり取りは無く、一方的なものであるのです。

そうすると仮に杉下が罪の共有をしたとするならば、それは成瀬の罪(偽証の指示)を共有する、という事になってしまうのです。

これはおかしいですよね。ですからこの時のやり取り、偽証が成立したプロセスを『罪の共有』というフレームワークで理解すると、事の本質を理解できなくなってしまうのです。