2015年3月25日水曜日

キルケゴールの思想に対する証左


本日でひとまず、ドラマがキルケゴールの実在主義哲学がモチーフになっている、という主張の証左を終えようと思います。

本日はキルケゴールの哲学内容と関連する部分について述べます。

キルケゴールの思想上の特徴は

人の有限な時間性
主体的真理の追究及び実践
絶望とキリストによる魂の救済

です
杉下及び杉下の父親の寿命への意識は上記の人の有限な時間性についての証左。

キルケゴールはキリストによる救済を拒絶する真理状態を”悪魔的絶望”と読んでいます。これは現代編での成瀬が現れる前の、誰の助けも得ようとしない頑なな杉下の真理状態に対応しています。

魂の救済、及びそのプロセスは映像表現として難しい部分がありますが、絶望状況にあった杉下が成瀬と再会してから以降、島で成瀬に身を任せるまでの部分が対応していると思います。

成瀬の申し出には”甘えられない”という表現で成瀬の申し出を保留しました。これはキルケゴールが魂の救済過程の初期に現れるとした”怖れと慄き”。手を差し伸べている救済者に対して、身を任せられない心理状況です。

母親との和解では、再会の直前で逃げ出すという事をしています。これは魂の救済のプロセスで陥りうるとした”躓き”と表現される部分。

島で成瀬に身を預ける段階が魂の救済


主体的真理の発見・気付きについては残念ながら映像表現をしようの無い部分なので状況からの推測になります。

成瀬との再会の後、主治医に”誰も悲しませずに死ぬことはできないのか?”と聞いている事から、成瀬との会話が杉下の頑なな心を解き、主体的真理への胎動が生まれ、主治医から”誰も悲しませずに死ぬことなで出来ない”と諭された事で主体的真理の発見・気付き・希求が発生したと理解しました。

高野と会った際の杉下の表情はこれまでとは変わって、明るく、服装も黒のモノトーンから白黒のツートンとなっていた事。それ以前には子供を見ると涙ぐんでいたのが、弟の子供の写真を愛おしく見ている事などから、この間に杉下の認識の変化があった事が判ります。


西崎の”崩れ落ちそうな橋”については、キルケゴールが人間の可能性に対する不安を谷を引き合いに説明しています。その証左と判断しています。

写真&シャッター音は、キルケゴールの時間論との関連ですが、キルケゴールは瞬間を”永遠が有限な時間に介入して、何かを生成するその時”と表現していますので、その表現であったと。これから何かが起こる、変化が発生する、というシーンで必ずありましたね。

以上で、ドラマがキルケゴールの実在主義哲学がモチーフとなっている、という説明については終了いたします。

16/01/18 追記
瞬き&シャッター音については、その全てが『瞬間記憶』では無い、というのが現在の解釈です。
一部にフラッシュバックとしての描写があります。
現代編で、高野が杉下宅を訪ね、インターフォン越しに高野を認めた際の瞬き&シャッター音はその後に続く『一瞬で蘇る〜』杉下のモノローグからフラッシュバックである事が判ります。

1 件のコメント:

motoさん さんのコメント...

瞬き&シャッター音は、瞬間記憶というよりは、”記憶の焼き付き”と取ったほうがよさそうです。原作における描写から瞬間記憶と呼ばれているのですが、どうもこのドラマはキルケゴールの実存主義だけでは説明できず、多分に構造主義的側面を持ち合わせています。構造主義的な面から瞬間記憶を評価すれば、それは”記憶の焼き付き”としてとらえた方がいいと考え直しています。

そういった視点で考えると、実は最後のシーンで杉下が成瀬に身を預けるのも、別の様相が見えてきます。杉下の心・思考は成瀬に縛り付けられている、というという評価も可能なのです。今では私の評価はこちらに軸足が移っています。