2015年7月29日水曜日

杉下の父親について


杉下の父親についての、皆さんの評価はどのようなものでしょうか?

想像するに、身勝手な自分本位のどうしようもない父親、という評価が一般的ではないかと思います。

私は多少違う見方です。
彼は自分の寿命は後三年、と明確に意識していました。残された自分の時間を強烈に意識したのです。
実在主義哲学では、実在が有限な時間的存在である、とされています。つまり『死に向かって今と未来を生きる』存在。
限られた時間を意識すれば意識するほど、その時間をどう使うか、その使い方に自らが納得できるか、という事を考える。
富も名声もあの世へは持っていけない。死ぬ時は常に孤独。誰も寄り添ってはいない。死の間際に自分が幸せであったと思って臨むことが出来るか?それが非常に問題になる。

杉下の父親は強烈にそれを意識したんです。
娘婿として会社を継ぎ、家族の為、従業員の為身を粉にして働いたに違いありません。自分を抑圧し周囲の幸せを優先して生きてきたんだと思います。如何に倫理的に生きるか、腐心したでしょう。でも彼は絶望した。如何に倫理的に生きようともそれで満足し得ない自分が存在していた。その中で自らの限られた時間を意識した時、今いる絶望から抜け出す為に実在的選択をした。実在的選択とはつまり究極の選択、『あれか、これか』を行ったのです。

彼が夏祭りを見守る際に見せた孤独の表情は、悲しみに満ちていました。
ですから、結果として彼の行為はエゴイスティックではあったけれども、無責任であるとか身勝手という表現だけでは説明しきれない、実在主義的選択の一つの形であったと思うのです。

参照
解釈の解説1 キルケゴールの実在主義
魂の解放

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