2015年3月31日火曜日

製作者の意図、目標

『Nのために 論考』

今日はドラマの謎解きを少し離れて、このドラマでの製作者の意図、目標について触れておきたいと思います。

製作側の意図は下記3点と思ってます。
1.物語の構造にこだわりにこだわったこと
2.視聴者をだまくらかす事
3.杉下を幸せにする事

構造については、既に書かせて貰いましたが、さざなみ事件とスカイローズガーデン事件を、同一ポジションの登場人物に原因・意図・行動・結果・時間を反転させた対構造を作り上げた。
その上で、さざなみは”偶然と勘違いと思いやりによる美”を、スカイローズガーデンでは”必然とエゴと打算による醜”を弁証法的に作り出し、杉下に二重の苦しみを負わせた。

視聴者のだまくらかしについては、スカイローズガーデンの安藤の外鍵の隠蔽の先にある、4人の取引を隠蔽し、杉下の成瀬を守る意図を視聴者に隠した。

そして現代編での、杉下の魂の解放、ラストシーン。
杉下に幸せを与える、苦しみから解放する。
死期を迎えようとする人間には、自分が頼れると思う存在、その存在が近くに居てくれる、という信頼が最後の拠り所だと思うのです。
杉下の最後の幸せとして、杉下が頼れる成瀬の元に。
それが製作者の目標だったと思います。

1 件のコメント:

motoさん さんのコメント...

この当時の認識って、確かにこの位だったんですよね。でも今ではまた違う見え方がある。
1つ目の構造、に関して言えば、ここで言っているのは確かにそうなのだけれど、これは物語の”仕掛け”というくらいの意味合いで取った方がいいのかもしれない。
今では、同じ「構造」という単語からは『構造主義』を想定しています。ヘーゲル主義、実存主義、そして構造主義と連なる哲学史をなぞった流れですね。ざっくり言えばさざなみ炎上がヘーゲル主義、スカイローズガーデンが実存主義、現代編が構造主義に当てはめることが出来るでしょう。
ミステリーとしての視聴者の理解度の進展もこのように捉えてもいいのかもしれない。実際自分の理解の仕方も、ヘーゲル主義的見え方から、実存主義的視点からの再評価を経て、その実杉下の行動は結局は構造主義的な視点からの評価でしか見えなくなった。

2つ目のだまくらかしは、まあミステリーなわけで、当たり前ではあるんですが、徹底していましたよね。物語として描かれている部分も有るけれど、推理の中でしか登場しない部分なども豊富です。このだまくらかしが物語として組み込まれている、という事を前提にミステリーを解いていかないと、やっぱり何処かでその理解に粗が出るんですよ。そのたびに全ての部分を再評価しないといけない、という状態になる。まあ、それが非常に謎解きを面白くしてくれているんですが。

3つ目の杉下を幸せにすること、というのは実は今では?です。これは1の部分とも絡むんですが。やっぱりこのドラマは原作者の湊かなえの”いやミス”を踏襲しているんです。ラストシーン、杉下が成瀬のいる島に戻り、二人が手を取り、抱擁して長いラブストーリーがハッピーエンドで終わった、よかったよかった。これが大方の視聴者の判断だと思います。私も当初そう思っていました。
ですが、よくよく考えると、杉下が最後成瀬の下に帰る、というのは人間の行動心理としてやっぱりおかしい事に気づくんです。
結局この杉下の行動を説明するには、杉下の成瀬に対する強烈な精神的呪縛にその理由を求めざるを得ず、その意味で構造主義的で、”いやミス”なんですね。
これは最後のシーンに使用された音楽が、"For N"ではなく"Silly"である事が暗示していると思っています。